キリスト教的善意
帰省したとき、文庫本を2,3冊借りて帰ったんですが、その中で面白い内容がありました。
キリスト教の功罪については、いろいろとありますが、アフリカやアジア、中南米の独自の宗教や文化を根絶やしにしたのは間違いないそうです。
で、困った事にそれは悪意ではなく、「絶対的な善意」なんですね。宣教師が訪れた現地の土着の宗教は文化などは欧州のキリスト教徒からみたら、それこそ野蛮極まりないもので、即座に教育しなおす必要があると感じ、善意の塊として学校を作り教会を作り教育を始めた。
キリスト教の伝道については日本も同じで、特に戦国時代から鎖国までの時代、そして明治からの時代、意気に燃えた伝道者が沢山やってきていました。
明治時代には沢山のお雇い外人を日本政府は雇っていましたが、いろいろな技術指導より本音の部分は宗教指導をしたいお雇い外国人も多かったようです。
ただ、日本では幸か不幸かそういうキリスト教文化は根付かなかった。理由はいろいろとあるみたいですが。
日本以外の国でもそういう押し付け善意に激しく反発を感じる人も多かったと思いますが、「キリスト教が最高」と思ってる人にはなぜ行き先で強い反発を受けるのか納得がいかなかったのだと思います。というか絶対というものさしを体内に入れてしまったら、それ以外のものさしで物事を考える行為ができなくなるから、文明の未熟さゆえの反発と一まとめで片付けるしか方法がなかったような気がする。日本でも明治時代には、キリスト教の布教者は「叩き切る」と息巻いていた士族崩れの連中も多かったようですがすごい野蛮人に見えたんでしょうね。
人の価値観がそれぞれ千差万別である限り、絶対的な善悪というのは成立しないだろうなというのは自分的な思いなんですが(全くわし個人の考え方ですから文句を言われても困ります)。
善意の施しというのは、ありがたい反面注意しないとプライドを傷つけるものでもあります。
外国への援助で、「鼻につく」ことが少しでもあれば、いくらがんばってもちっとも感謝されない。
アフガンで日本人が殺されました。どういう組織で何をしているかは知りませんし、殺された理由も全くわかりませんから、うかつな事はいえませんが、宗教がものの考え方が大きく異なる地域に手を差し伸べに行くのは本当に大変なんだろうなあとチラリと思って、最近読んだ本の事がよみがえってきた。
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